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日本のアルミニウム圧延の歴史

Story 01

1898 年 〜 1944

産業の成立と、
民間への普及

消費者の立場から、
 アルミニウム製造事業の
創立を――」

1930年、古河電気工業(株)が社内外に向けて、
事業の方針を このように明言

アルミニウム産業の黎明

1886年、ある歴史的な大発明がありました。アメリカとフランスの化学者が、アルミナ(アルミニウムの製造原料)からアルミニウムを電気分解する精錬方法(ホール・エルー法)を発見。続いて1888年にはオーストリアの化学者が、ボーキサイトからアルミナを抽出する製造法(バイヤー法)を発見しました。これらの技術によって、希少で高価な素材だったアルミニウムの製造コストが劇的に下がり、品質も安定するようになりました。
日本では、まず政府がアルミニウムに着目しました。軍隊で使われていたひょうたん水筒や柳編みの弁当箱を、ヨーロッパ風のアルミニウムに置き換えたいと考えたのです。そして1894年ごろに、最初の国産アルミニウム水筒と飯ごうが誕生しています。

1894年ごろ、初めて日本で試作された水筒と飯ごう

国内初のアルミ圧延事業が立ち上がる

江戸時代、銅山開発で得た利益を元に、貿易や両替などに業容を拡大していた住友家は、明治維新後のさまざまな難局を乗り切り、1897年には伸銅品の製造事業にも進出。住友伸銅場(以下、住友と称す)を大阪の安治川に開設しました。このニュースを知った明治政府は、住友にアルミニウムの加工を委託しました。そして翌1898年、民間として国内初となるアルミニウム圧延を開始しました。

一方、私たちUACJのもう一つのルーツである古河家は、明治時代に銅山の開発で急成長を遂げていました。1905年には、古河家と交流があり、後に合併する大阪電気分銅(株)が、アルミニウムの圧延事業を開始しました。古河家も、この新しい素材の可能性に着目し、アルミニウムの製造や研究に着手しています。(以下、古河と称す)

住友伸銅場の製造現場

アルミ圧延事業の拡大

時代は昭和へと移り替わり、住友は1925年当時、大阪の安治川にあった工場を桜島に建設・移転。鋳造から圧延までの一貫ラインを新設しました。さらに1941年には、名古屋に軽合金製造所(現名古屋製造所)を新設。航空機用アルミ部材における最大供給者となる巨大工場であり、さまざまな最新技術を導入しました。
古河は、1930年にアルミニウム事業の方針として、「消費者の立場からアルミニウム製造事業の創立を極力援助する」と明言しました。1933年には生産設備増強にも踏み切り、栃木県の日光に溶鉱炉や鍛造機などを備えた工場(旧日光製造所)を新設しました。ジュラルミン板、棒などの生産量は約5倍に伸長し、後にアルミ板は会社を牽引する事業に発展します。さらに、古河は1943年~44年にかけて、小山地区に鍛造工場・管棒工場の建設を開始しました。

「超々ジュラルミン」の誕生

1917年、住友は、日本の技術力向上のため、民間企業として初の「研究課」を設けました。ドイツで発明された新合金「ジュラルミン」の再現に成功し、「住友軽銀(ジュラルミン)」と名付けました。1920年までに量産体制が整えられ、1921年より工業生産を始めました。古河も同時期にジュラルミンの研究試作を開始しており、1924年にジュラルミン研究を本格化。2年後には製品化しています。

その後、世界では、「ジュラルミン」を超える「超ジュラルミン」の開発が競うように進められていました。そして日本では、「超ジュラルミン」を超える高強度なアルミニウム合金が求められるようになりました。
住友は1936年に超々ジュラルミン(現7075合金相当)の合金開発に成功し、「エクストラ・スーパー・ジュラルミン」(超々ジュラルミン)として、国内外に知れ渡っていきます。この合金は、現在でもアルミニウム合金の中で最高クラスの硬度・強度を誇る、まさに歴史を動かす大発明でした。超々ジュラルミンはその後、航空機分野の変革を牽引し、輸送機器、航空宇宙分野など、さまざまな産業に利用されていきます。

ドイツの飛行船の骨組みの破片。これを分析してジュラルミンを再現した

アルミ Column ❶

日本人が、アルミニウムの知識を初めて得たのは、江戸末期にあたる1867年のことでした。「『ありみにうむ』という高価な軽い金属があった」——。パリ万国博覧会に招待された使節団の一行は、こんな土産話とともに帰国したそうです。当時のアルミニウムは製造コストが極めて高く、欧州でも高級食器などにしか使われない希少な素材でした。

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