UACJ「ラヨン製造所」の挑戦——
ゼロから工場を造った人たち
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2013年10月1日、国内トップクラスのアルミメーカー「古河スカイ」と「住友軽金属工業」が統合し、UACJが誕生した。
飲料水や食品の包装材、自動車等の輸送機器の材料、空調等の部材や建材など、日本の産業を支えてきた“アルミ加工の老舗”二社の血脈がひとつとなり、「日本発・世界基準のアルミ総合メーカー」は次の舞台へ踏み出した。
その象徴が、タイ・ラヨンに広がる東南アジア最大級のアルミ圧延拠点「ラヨン製造所」だ。更地に杭を打つところから、電力・水・道路、そして人材とサプライチェーンをゼロから組み上げた“グリーンフィールド戦略”。
海外で新拠点を起こす——それは、設備の移設や地盤との戦い、制度づくりと人づくりを同時に走らせる総力戦でもあった。その“ゼロからの挑戦”を担った立ち上げメンバーに、当時の意思決定と現場のリアル、そしてこれからの未来を聞く。
- 日本とタイの拠点にてそれぞれインタビューしております
SPEAKER

株式会社UACJ
特別顧問
山口 明則

株式会社UACJ
監査部 業務監査グループ 主幹
鳥羽 安雄

株式会社UACJ製箔
生産本部 本部長付
河本 清

株式会社UACJトレーディング
経理部 部長
郡司 隆之

UACJ Thailand Co., Ltd.
Administrative Department
Senior Manager
有田 耕太郎
日本のテクノロジーを海外に——そこから見える苦悩と決断
——UACJが海外進出に踏み切った背景を教えてください。
鳥羽当時は超円高で日本からの輸出が採算に合わず、国内需要も伸び悩んでいました。一方で東南アジアや中東では、自動車や缶材などのアルミ需要が急速に拡大しており、「成長市場は海外にある」と明確に見えてきた時期でした。
河本私たちが狙っていたのは、そうした成長地域で需要が高まるアルミ圧延製品の現地供給です。需要地の近くで生産すれば、供給スピードも上がるし、コスト面でも競争力を高められる。
日本国内ではすでに競合企業も海外展開を進めていましたから、我々としても早期に決断しなければという思いがありました。
山口結果的に「日本国内で成熟しきった市場に頼るだけでは立ち行かない」という現実を突きつけられたのがこの時期だったと思います。
海外に新しい拠点をつくるという決断は、単なるコスト対策ではなく、UACJがグローバル企業として生まれ変わるための第一歩でした。
——海外進出に踏み切った中で、なぜタイの地を選んだのでしょうか
鳥羽タイのほかにマレーシア、ベトナム、インドネシアなども候補に挙がっていました。比較のポイントは「需要」「人件費」「インフラの安定性」そして「税制」です。条件を総合的に見て、最もバランスが良かったのがタイでした。
また、BOI(タイ投資委員会)による税制優遇や労働許可の取得しやすさも、進出判断を後押しした大きな要因でした。
山口ラヨンを選んだ最大の理由は、洪水リスクを避けるためです。過去にアユタヤで大洪水があり「同じことを繰り返せない」という思いがありました。ラヨンは標高が高く洪水に強いうえ、レムチャバン港にも近く、輸出を見据えた生産拠点として理想的でした。
——設立当初の現場はどんな様子でしたか?
郡司もともとパイナップル畑だったらしくて、ハエがすごく多かったのを思い出します。まさに何もないところからのスタートだというのを肌で感じていました。
山口ゼロベースからの建設だったのでトラブルもありました。冷間圧延機の設置工事中に設備が沈下してしまったんです。 ラヨンの地盤は非常に硬いはずだったのに、なぜか沈んでしまった。後に調べてみると、地表近くのマサ土(まさつち)が風化して脆くなっており、その影響で基礎が沈んだことが分かりました。
河本建設現場は山と谷がある土地で、谷を埋め立てた部分は杭を打ち、山を削った部分は直接基礎という形で工事をしていました。
ところが、その直接基礎の場所でマサ土の風化が進んでいたんです。結果的に、現場チームがコンクリートを注入して補修し、何とか安定させることができました。
山口この地盤沈下は“スレーキング現象”によるもので、岩盤が空気や水にふれると急速に脆くなるという、タイでは珍しいケースでした。この経験を受け、地質への理解を深め、2期以降は地盤改良の精度を高めることで、より確実な施工につなげました。
——日光製造所の冷間圧延機を、タイへ移設する判断に至った背景を教えてください。
河本一期はできるだけ早く、コストを抑えて立ち上げる方針だったため、日光製造所で使っていた冷間圧延機を移設する判断をしました。実績のある設備で品質面の安心はありましたが、古い機械だったため修理しながら使う場面も多くて——。現地スタッフへの操作教育も含めて苦労の多い立ち上げでした。
有田“日本の技術を次の世代につなぐ”という思いもありました。国内で培った技術やノウハウをラヨンに受け継ぐことで、グループ全体の生産体制を強化したかったからです。まさに「日本の技術の魂をラヨンに託した」という表現がふさわしいと感じています。
信頼が育てたチームのカタチ
——工場の稼働が本格化し、日本人とタイ人が一緒に働く体制が整っていきました。実際に共に働く中で、文化や考え方の違いを感じたことはありましたか?
河本タイの方々は“人との関係性”をとても大事にする一方で、仕事の線引きはハッキリしていて、親身になってくれるけれど職務範囲を越えるようなことはしない。最初はその違いに戸惑いましたが、明確にジョブディスクリプション(職務定義)を作り、役割を明文化することで、お互い気持ち良く働けるようになりました。
山口日本には“言わなくても動く”文化がありますが、タイでは“決められたことを決められた通りに行う”のが基本で、その違いに最初は戸惑いました。けれど、それはルールを守る姿勢でもあり、日本側も標準書を明確に整える重要性を痛感しました。この経験は業務の仕組みを見直す大きなきっかけになったと思います。
郡司オフィスでも文化の違いを感じました。タイでは“他人の仕事を尊重する”考え方があり、清掃担当者の役割を大切にするため自分でゴミを捨てないこともあります。最初は驚きましたが、その背景を知ってからは学ぶことの方が多かったですね。
有田日本では“1を言えば10を理解する”感覚がありますが、タイでは必要な10をきちんと伝えなければ伝わらないことに最初は戸惑いました。報連相(報告・連絡・相談)の文化も違い、誤解が生まれることもありましたが、丁寧に段階を踏んで伝える方法に変え、対話を重ねる中で互いの強みを生かし合える進め方ができました。これが今のラヨン製造所の強みになっていると思います。
——立ち上げメンバーとして一番大変だった挑戦はありますか?
鳥羽私の印象に残っているのは、“人が定着する職場にするには何が必要か”という点です。赴任当初は品質保証部の立ち上げを担当していましたが、育てたリーダーが思わぬタイミングで離れることもあり、どうすれば長く働き続けてもらえるのかを考えるきっかけになりました。
だからこそ、仕事だけでなく日常的な交流を大切にしました。また現地スタッフと信頼関係を築くために、通訳を介さず直接コミュニケーションを取ることを意識していました。今思えばあの時期の試行錯誤が“人を育てる”という意味での礎になったと思います。
河本設備面ではとにかく“時間との戦い”で、立ち上げ期は毎日がトラブル対応の連続でした。工事段階では、こちらがタイ語を十分に理解できず、細かな指示を思うように伝えられない場面も多く、見て覚えてもらうような指導に頼らざるを得なかったことは今でも反省点です。
それでも現地スタッフは日本人のやり方を理解しようと懸命に向き合ってくれ、私たち以上に踏ん張ってくれたおかげで、いまのラヨン製造所があると感じています。
郡司私はBOI(タイ投資委員会)の認可取得にとても苦労しました。赴任当初から準備を進めていましたが、審査状況が見えず、申請資料の見直しを何度も繰り返すことに。通信環境も十分でない中、日タイ双方で夜遅くまで資料をすり合わせる日々が続きました。いつ承認が下りるか分からない状況での並行作業は、精神的にもかなりハードでした。
有田私は“言葉の壁”が最大の課題でした。赴任当初は社内で日本人が私ひとり、周囲はすべてタイ人という環境。最初は会話もままならず、まさに「幽霊社員」のような存在でしたよ(笑)。
危機感を覚えて、タイ語学校に通い始め、平日は仕事のあとに2時間、休日は1日10時間勉強しました。2カ月ほどでようやく会話が成り立つようになり、そこから現地の仲間たちとの関係が一気に変わっていきました。
現地語を学ぶことが、心の距離を縮める一番の近道。あの努力が今の自分をつくってくれたと思っています。
山口私の中で最大のテーマは“ローカル化(現地化)”でした。立ち上げを急ぐ中でも、最初から「いずれはタイ人主体の工場にする」という思いを持っていました。
とはいえ、いま振り返っても“ローカル化”はまだ道半ばです。日本人の比率は依然として高く、本当の意味で現地の力で回る組織にするには、まだやるべきことがある。これは今でも私の中で大きな課題として残っています。
挑戦の先に見えた成長と未来
——次の世代に伝えたいことはありますか?
郡司立ち上げ当初の試行錯誤が今の自分を支えています。仲間と一緒に制度やルールを作り上げていく中で、“会社は人がつくる”という実感を得ました。
次の世代にも、環境が整っていないことを恐れず、自分たちで形にする楽しさを味わってほしいですね。
河本このプロジェクトに関わった人たちは、失敗と試行錯誤の連続から多くを学んだと思います。私たちの経験が次の世代の糧になればうれしいです。短い時間でも本気で打ち込む期間を持つことが、後の人生で大きな財産になると感じています。
鳥羽立ち上げというのは特別な経験ですが、きっとまた同じようなチャンスは巡ってくると思います。世界的に見てもアルミの需要は伸びていますし、将来また大規模な投資の機会があるはず。そのときに“自分がその一翼を担うんだ”という気持ちで、積極的に手を挙げてほしいですね。
有田今もタイに残る立場として、これからは現地スタッフの育成がより重要だと感じています。ラヨンのメンバーは力のある人ばかりなので、彼らが自信を持ってリーダーシップを発揮できる環境づくりを進めていきたい。それが自分にできる次の世代へのバトンだと思っています。
山口更地から工場をつくる“グリーンフィールド”の経験は、そう簡単に得られるものではありません。その経験を、今後マネジメントや人材育成の場で生かしてもらいたいですね。
「UACJこんなこと始めたのか」といったワクワクするような挑戦を今後も期待しています。
——今後のラヨン製造所にどんな未来を期待していますか?
河本変化を止めないこと。それが一番大事だと思います。現状維持は後退と同じで、変わらなければ設備も老朽化し、お客様も離れてしまう。だからこそ、今いるメンバーや次の世代が“新しいことに挑戦する精神”を持ち続けてほしいですね。
郡司タイ人の中から、将来的にマネージングダイレクターのような立場に立つ人が出てきたらうれしいですね。現地で育ったメンバーがリーダーとなってラヨン製造所を率いる——そんな未来が見られたら、本当の意味で“現地化”が実現した証だと思います。
有田赴任して気づけば十数年、この地で家庭を築き、子どもも生まれました。そうした人生の節目を迎えられたのも、この会社とラヨン製造所があったからこそ。ここには“人を育て、人を変える力”があります。これからもタイと日本、そして次の世代をつなぐ場所であり続けてほしいですね。
山口ラヨン製造所はUACJを支える大きな柱になりました。けれど、これはゴールではありません。今後はさらに新しい製品や技術に挑戦し、皆様に驚かれるような進化を遂げてほしい。
これからもそんな“挑戦の物語”を紡いでいってほしいと思います。


